『イベント担当になりまして。』名もなき担当者が、日本最大の舞台をつくるまで Vol.5 本番5分前、司会者が来ない
突然、会社のイベント担当を任された、ごく普通の会社員・相原美咲。
経験もノウハウもないまま、Excel、メール、電話を頼りに準備を始めますが、会場予約の期限切れ、増え続ける修正、関係者との認識違い、そして本番直前のトラブル――。イベントの規模が大きくなるほど、彼女の前には新たな課題が立ちはだかります。
30人の小さな歓迎会から、日本最大級のコーポレートイベントへ。
『イベント担当になりまして。』は、一人の会社員がイベントとともに成長していく姿を描く、BizMICEの連載ビジネス小説です。
※本作品はフィクションです。登場する人物、企業、団体および出来事は架空のものであり、実在するものとは関係ありません。
前回までのあらすじ
中堅メーカーの総務部で働く相原美咲、29歳。
初めて任された新入社員歓迎会で、会場の仮予約を失い、予算超過に直面し、内容の異なる複数の「最新版」に振り回されながらも、準備を進めてきた。
美咲は進行表にバージョン番号と更新日を付け、変更履歴を残し、関係者全員が同じ資料を確認するためのルールを決める。
本番前日、司会を担当する営業部の中村からも連絡が届いた。
明日は17時30分に会場へ入ります。よろしくお願いします!
会場も、予算も、進行表も、司会台本もそろった。
あとは、本番を迎えるだけ。
そう思っていた。
午後6時40分
開会まで、あと5分。
会場には50人を超える参加者が集まっていた。
新入社員たちは、少し緊張した表情で丸テーブルを囲んでいる。先輩社員は飲み物を片手に談笑し、社長もすでに来賓席へ着いていた。
ステージ中央には演台。
その横には、ワイヤレスマイクが2本。
正面のスクリーンには、歓迎会のタイトルが映し出されている。
会場は整っていた。
ただ一人、司会者を除いて。
「中村さん、まだですか?」
人事部の担当者が、美咲へ尋ねた。
「連絡しています。もう少し待ってください」
美咲はスマートフォンを耳に当てた。
呼び出し音が続く。
一度、二度、三度。
中村は出ない。

社内チャットにもメッセージを送った。
既読はつかない。
午後6時41分。
開会まで、あと4分。
会場担当者が駆け寄ってきた。
「相原様、予定どおり18時45分に開始いたしますか?」
「少しだけ待ってください」
そう答えたものの、何分待てばよいのかは分からない。
参加者はすでに着席している。
料理を出す時間も決まっている。
開始を遅らせれば、終了時間も後ろへずれる。会場利用時間を延長すれば、追加料金が発生する可能性もある。
何より、理由も分からないまま全員を待たせるわけにはいかない。
進行表に書かれていないこと
美咲は進行表を開いた。
18時45分 司会者登壇・開会挨拶。
18時47分 総務部長挨拶。
18時52分 乾杯。
19時00分 歓談。
分刻みで、やるべきことが書かれている。
司会台本には、中村が話す言葉もすべて記載されていた。
しかし、どこにも書かれていない。
「司会者が来なかった場合、誰が代わるのか」
出演者やスタッフの到着確認はしていた。
映像データの予備も準備した。
マイクが故障した場合に備え、2本用意した。
だが、人が来ない可能性までは考えていなかった。
美咲は人事部の担当者に尋ねた。
「司会、代われますか?」
「私ですか? 無理です。台本も見ていません」
高橋部長を見る。
社長と話していて、こちらの状況には気づいていない。
会場スタッフは運営を支援してくれるが、社内の名前や役職、新入社員の情報までは分からない。
司会台本の内容を最も理解しているのは、中村。
その次に理解しているのは――。
美咲だった。
「私がやります」
午後6時42分。
開会まで、あと3分。
学生時代の試合で、エースが負傷した日のことを思い出した。
ベンチにいた美咲が、突然コートへ呼ばれた。
準備はできていなかった。
怖くなかったわけではない。
それでも、誰かが入らなければ試合は続かない。
今も同じだ。
司会者がいなければ、イベントは始まらない。
美咲は進行表を閉じた。
「私が司会をやります」
人事部の担当者が目を見開いた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ではありません。でも、台本は全部確認しています」
声が震えているのが、自分でも分かった。
「受付をお願いできますか。中村さんから連絡が来たら、すぐに教えてください」
次に会場担当者へ向き直った。
「予定どおり18時45分に始めます。私が司会に入ります」
「承知しました。音響担当にも共有します」
「最初の映像が終わったら、マイクをオンにしてください」
美咲はジャケットの袖を整えた。
手のひらに汗がにじんでいる。
進行表と司会台本を持ち、ステージ脇へ向かった。

30秒前
午後6時44分30秒。
開会まで、あと30秒。
ステージ脇から会場を見る。
50人を超える参加者。
新入社員。
役員。
社長。
これまで電話やメールでしかやり取りしていなかった相手が、一つの空間に集まっている。
美咲の耳に、会場担当者の声が届いた。
「相原様、映像をスタートします」
照明が少し落ちた。
スクリーンにオープニング映像が流れ始める。
美咲は司会台本の最初の一文を目で追った。
本日は、新入社員歓迎会へご参加いただき、誠にありがとうございます。
何度も読んだ文章なのに、声に出そうとすると舌が動かない。
心臓の音が、映像の音楽より大きく聞こえる。
バレーボールの試合なら、最初の一本を思い切り打てば身体が動いた。
司会も、最初の一言を出せば何とかなる。
美咲はゆっくり息を吸った。
映像が終わる。
会場が暗くなり、一瞬の静寂が訪れた。
スポットライトが司会台を照らす。
美咲はマイクを握った。
「皆様、大変お待たせいたしました」
自分の声が、会場全体へ響いた。
少し高い。
だが、声は出た。
「ただいまより、2026年度新入社員歓迎会を開会いたします。本日の司会進行を務めます、総務部の相原です。どうぞよろしくお願いいたします」
会場から拍手が起こった。
その音を聞いた瞬間、美咲の肩から少し力が抜けた。
イベントが、動き始めた。
一つ目の予定変更
総務部長の挨拶は無事に終わった。
乾杯も問題ない。
参加者が料理を取りに立ち、会場に会話が広がった。
美咲はステージ脇へ戻り、スマートフォンを確認した。
中村から着信が3件。
すぐに折り返す。
「相原さん、本当にごめん!」
中村の息が切れていた。
「人身事故で電車が止まって、別の路線へ乗り換えたんだけど、スマートフォンの充電も切れてしまって。今、会場の最寄り駅に着いた」
「無事ならよかったです」
安心と腹立たしさが同時に込み上げた。
「あと10分くらいで着く。今どうなってる?」
「もう始めました。私が司会をしています」
電話の向こうが静かになった。
「相原さんが?」
「はい。到着したら、紹介映像の前から代わってください」
本当は今すぐ代わってほしかった。
だが、司会が途中で突然変われば、参加者も戸惑う。
歓談後の区切りで交代する方が自然だ。
「分かった。本当にごめん。急ぐ」
電話を切ると、美咲は進行表を確認した。
中村が到着するまで、予定ではあと二つの案内がある。
そのまま自分が続けるしかない。
進行表は変わっていない。
しかし、誰がその役割を担うかが変わった。
イベント本番では、決めたとおりに進めるだけでは足りない。
状況に合わせ、進め方を変える判断が必要なのだ。
台本にない一言
午後7時15分。
中村が会場へ到着した。
額には汗が浮かび、ネクタイも少し曲がっている。
「本当に申し訳ない」
「話は後です。次の新入社員紹介からお願いします」
美咲は司会台本を渡した。
中村は内容を確認し、うなずいた。
歓談時間が終わる。
美咲は再び司会台へ立った。
「皆様、ご歓談中のところ失礼いたします」
声はもう震えていなかった。
「ここからの進行は、営業部の中村へバトンタッチいたします」
中村がステージへ上がる。
会場から軽い拍手が起こった。
本来の台本には、「司会交代」という項目はない。
美咲は一瞬迷い、それから続けた。
「実は、本日の準備中に少しだけ予定外の出来事がありました」
高橋部長が、驚いた顔で美咲を見る。
「イベントでは、どれだけ準備をしても、予定どおりにいかないことがあります。それでも、皆様に楽しんでいただきたいという気持ちは変わりません。引き続き、新入社員の皆さんを温かく迎えていただければと思います」
台本にはない言葉だった。
会場から、先ほどより大きな拍手が起こった。
中村が美咲からマイクを受け取る。
「相原さん、見事な司会をありがとうございました。ここからは私が責任を持って進めます」
参加者の間から笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、少し柔らかくなった。
美咲はステージを降りた。
足が震えている。
それでも、最後まで転ばずに歩けた。
予定どおりではなかった成功
紹介映像は問題なく再生された。
新入社員30人も、一人ずつステージで自己紹介をした。
緊張で言葉が止まってしまう人。
予定の30秒を大きく超えて話す人。
笑いを取る人。
拍手を受け、照れながら席へ戻る人。
進行は予定より8分遅れた。
しかし中村が歓談時間を少し調整し、閉会時刻は予定から3分遅れただけだった。
午後8時48分。
最後の参加者が会場を出る。
扉が閉まった瞬間、美咲は近くの椅子へ腰を下ろした。
「終わった……」
身体から力が抜けた。
高橋部長が歩いてくる。
叱られるかもしれない。
司会者の到着確認ができていなかったことも、代役を決めていなかったことも、担当者である自分の責任だ。
美咲は立ち上がろうとした。
高橋はそれを手で制した。
「座ったままでいいよ」
そして、少し笑った。
「最初に任せたときは、会場と料理を用意すれば何とかなると思っていた」
美咲は苦笑した。
「私も、そう思っていました」
「でも、今日は相原さんがいなかったら始まらなかった。よく判断したね」
褒められるとは思っていなかった。
美咲は何と答えればよいか分からず、「ありがとうございます」とだけ言った。
一通のメッセージ
翌朝、美咲は歓迎会の片付けと精算のため、早めに出社した。
受信トレイには、参加した社員からのメールがいくつか届いている。
料理がおいしかった。
映像がよかった。
新入社員の個性が分かって楽しかった。
その中に、新入社員の一人から届いたメッセージがあった。
昨日はありがとうございました。
入社してから緊張していましたが、先輩社員の方々が名前を覚えて話しかけてくださり、少し安心しました。
自己紹介の時間があったことで、同期のことも知ることができました。
この会社で頑張りたいと思える歓迎会でした。
美咲は、その文章を何度も読んだ。
会場を失った。
予算が合わなかった。
進行表の最新版が分からなくなった。
司会者が本番に間に合わなかった。
舞台裏では、失敗の連続だった。
それでも、参加者には何かが届いていた。
イベントは、予定どおりに進めることだけが目的ではない。
人の気持ちを動かし、次の一歩を後押しする。
そのために、会場があり、料理があり、映像があり、進行がある。
初めて、準備してきた一つひとつの作業が、一つの意味につながった気がした。
美咲はメッセージを保存し、小さくつぶやいた。
「もう一度、やってみてもいいかも」
イベント担当になってから初めて、自分からそう思った。
今回の舞台裏から学ぶこと
重要な役割には代替要員を決める
司会者、進行責任者、映像・音響担当者など、イベントの進行に欠かせない役割については、不在時の代替要員を決めておきましょう。
代替要員には、事前に次の情報を共有します。
- 当日の進行表
- 司会台本や運営マニュアル
- 関係者の氏名と役割
- 緊急時の判断基準
- 必要なデータや資料の保存場所
名前だけを決めるのではなく、実際に代われる状態をつくっておくことが重要です。
到着確認の時間と担当者を決める
当日の集合時刻を伝えるだけでは、到着管理として十分ではありません。
- 誰が到着確認を行うか
- 集合時刻を過ぎたら何分後に連絡するか
- 電話がつながらない場合の代替連絡先
- 開始時刻までに到着しない場合の対応
- 進行を遅らせるか、代役を立てるかの判断者
これらを事前に決めておくことで、本番直前の混乱を抑えられます。
緊急時は「守るもの」を決める
すべてを当初の予定どおりに実施できない場合は、何を優先して守るのかを判断します。
今回、美咲が守ったのは、予定した開会時刻と、参加者を不安にさせないことでした。
イベントの目的、参加者への影響、安全性、追加費用などを基準に、変更するものと守るものを切り分けることが大切です。
トラブルも振り返りの資産にする
本番後は、失敗した人を責めるだけでなく、同じ状況が起きても対応できる仕組みに変えることが重要です。
- 何が起きたか
- なぜ対応が遅れたか
- その場でどのような判断をしたか
- 次回は何を準備するか
トラブルの記録は、次のイベントを強くする運営ノウハウになります。
美咲が今回学んだこと
イベントの成功とは、予定どおりに進むことだけではない。
予定外のことが起きても、届けたい価値を守り抜くことだ。
次回予告
Vol.6 「楽しかった」の、その先へ
初めての歓迎会を何とか終えた美咲。
参加者から届いた感謝のメッセージに喜ぶ一方、上司から「歓迎会は成功だったのか」と問われ、答えに詰まる。
無事に終わった。
参加者も楽しそうだった。
だが、それを証明するものは何もない。
参加率、満足度、交流の量、会社への理解――。イベントの成果は、何をもって測ればよいのか。
そして美咲のもとへ、次の仕事が舞い込む。
参加者200人、創立30周年記念イベント。
初めての歓迎会とは比べものにならない、新しいプロジェクトが始まろうとしていた。







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