本連載は、企業イベントの担当者になった主人公・相原美咲が、数々の失敗や予期せぬトラブルを乗り越えながら成長していくビジネス小説です。登場する企業・人物・イベントはフィクションです。

「第一部で祝辞をお願いしている来賓の方が、まだ到着していません」

インカムから聞こえた言葉に、美咲は足を止めた。

青嶺テクノ創立30周年記念イベント。

時刻は17時50分。開演まで、あと10分だった。

祝辞を依頼しているのは、青嶺テクノの創業当初から取引のある東峰産機株式会社の大崎会長だ。

予定では、18時にオープニング映像が始まり、黒田社長の挨拶に続いて、18時15分から大崎会長が登壇する。

参加者はすでに会場へ入り始めていた。

会場前方のスクリーンには、青嶺テクノの30周年を示すグラフィックが映し出されている。

ステージ上の演台には、大崎会長の名前が入った進行資料が置かれていた。

「現在地は確認できていますか」

美咲はインカムで尋ねた。

「秘書の方にも、運転手の方にも連絡がつきません」

登壇予定時刻まで、あと25分。

近くにいれば間に合う。

だが、今どこにいるのか分からない。

美咲は進行台本を開いた。

そこには、分単位で本番の流れが記されている。

しかし、どのページを見ても、「登壇者が来ない場合」の指示はなかった。

「待つ」という判断にも、期限が必要

「もう少し待ちますか?」

ステージ担当者が尋ねた。

美咲は、すぐには答えられなかった。

予定通り到着するかもしれない。

開演直前に連絡が入り、「あと5分で着く」と言われるかもしれない。

だが、その可能性だけを信じて待ち続ければ、判断が遅れる。

登壇者が到着していないからといって、200人を超える参加者を待たせるわけにはいかない。

「開演は予定通り18時です」

美咲は答えた。

「大崎会長の到着確認は続けます。ただし、18時3分までに到着時刻が分からなければ、祝辞を後ろへ移します」

「18時3分ですか?」

「はい。変更するなら、司会、映像、音響、照明、舞台進行へ伝える時間が必要です。判断を先延ばしにすると、今度は変更そのものが間に合わなくなります」

待つか、変更するか。

重要なのは、どちらかをすぐに選ぶことではない。

「いつまで待つか」を決めることだった。

美咲は高橋に状況を報告した。

「進行順を変更する場合は、18時25分から予定していた30周年記念映像を前に移します。その後の未来ビジョン発表まで進めれば、最大20分程度の時間を確保できます」

高橋は一度、会場内を見た。

「黒田社長には私から伝える。進行は相原さんの判断で動かしていい」

その言葉を聞き、美咲は短く息を吸った。

これまでなら、「どうすればいいですか」と答えを求めていた。

だが、今は自分が判断案を示し、周囲を動かさなければならない。

進行台本を「止めずに組み替える」

美咲は、現在の進行を確認した。

当初の進行

  • 18:00 オープニング映像
  • 18:05 黒田社長挨拶
  • 18:15 大崎会長祝辞
  • 18:25 30周年記念映像
  • 18:35 未来ビジョン発表

大崎会長の祝辞を後ろへ移す場合、30周年記念映像と未来ビジョン発表を前倒しする。

変更案

  • 18:00 オープニング映像
  • 18:05 黒田社長挨拶
  • 18:15 30周年記念映像
  • 18:25 未来ビジョン発表
  • 18:40 大崎会長祝辞

問題は、順番だけではない。

司会原稿を変える必要がある。

舞台袖で待機する登壇者も変わる。

映像の再生順、照明の切り替え、マイクの受け渡し、登壇者の誘導、スクリーンに表示する肩書も連動して変わる。

進行表の一行を動かすだけで、複数のスタッフの動きが変わるのだ。

美咲はMICE Joyに「進行変更案B」を登録した。

変更後の進行を、司会者、舞台監督、映像、音響、照明、会場担当、社内運営メンバーへ共有する。

サプライヤーには、それぞれの担当に必要なタスクと資料だけが表示される。

司会者には修正した読み原稿。

映像担当には再生順。

照明担当にはシーン番号。

舞台監督には登壇順と転換のタイミング。

会場担当には、遅れて到着する大崎会長の案内ルート。

全員に同じ情報を大量に送るのではなく、各担当者が「自分は何を変えるのか」を確認できる状態にした。

チャットに、次々と返信が入った。

「司会原稿、変更確認しました」

「映像再生順、対応可能です」

「照明シーン、組み替えます」

「登壇者誘導、変更案Bで待機します」

美咲は、対応状況を一つずつ確認した。

直前に届いた一本の連絡

17時57分。

美咲のもとへ、先ほど受付で対応した東峰産機の長谷川常務が近づいてきた。

「相原さん、大崎会長の件ですが、秘書と連絡がつきました」

「ありがとうございます。現在、どちらにいらっしゃいますか?」

「高速道路で事故渋滞に巻き込まれたそうです。ホテルへの到着は、18時25分ごろになる見込みです」

18時25分。

当初の祝辞開始時刻には間に合わない。

変更案なら、登壇まで15分の余裕がある。

「承知しました。祝辞を18時40分へ変更します。到着後は、会場へ直接ではなく、登壇者控室へお越しいただけますか」

「分かりました。秘書にも伝えます」

美咲はインカムを入れた。

「進行変更を確定します。変更案Bで進めます。大崎会長は18時25分到着予定、祝辞は18時40分です」

舞台監督から返信があった。

「変更案B、確定で受けました」

その直後、開演5分前を知らせる合図が入った。

会場内の照明がゆっくりと落ちていく。

参加者の話し声が静かになった。

美咲は舞台袖へ移動し、変更後の進行表を開いた。

やるべきことは、登壇者の遅刻を参加者へ説明することではない。

変更があったことを感じさせないほど、自然に本番を進めることだった。

本番は、予定通り始まった

18時。

会場が暗転し、オープニング映像が始まった。

青嶺テクノの創業から現在までをつなぐ映像が、巨大なスクリーンに映し出される。

映像が終わると、黒田社長が登壇した。

「本日は、青嶺テクノ創立30周年記念イベントにお越しいただき、誠にありがとうございます」

社長挨拶は予定通り進んだ。

続いて司会者が、変更した原稿を読み上げる。

「ここで、青嶺テクノが歩んだ30年を、映像で振り返ります」

会場が再び暗くなる。

30周年記念映像が始まった。

参加者の多くは、進行順が変更されたことに気づいていない。

映像担当は予定とは異なる素材を正確に再生し、照明担当も変更後のシーンへ切り替えていた。

舞台袖では、次に登壇する未来ビジョン発表の担当者が待機している。

美咲はMICE Joyの画面を見た。

変更したタスクには、次々と完了のチェックが入っていた。

バラバラに動いているように見えるスタッフが、一つの変更を中心に連動している。

台本を守ることより、イベントの目的を守る

18時24分。

会場担当者から連絡が入った。

「大崎会長、ホテルへ到着されました。これから控室へご案内します」

「承知しました。舞台監督と司会者へ共有してください」

控室では、スタッフが祝辞の資料と登壇動線を確認した。

大崎会長は到着後、上着を整え、水を一口飲むと、すぐに舞台袖へ向かった。

18時39分。

未来ビジョン発表が終わる。

司会者が登壇した。

「続きまして、青嶺テクノが創業当初から大変お世話になっております、東峰産機株式会社、取締役会長の大崎様より、ご祝辞を頂戴いたします」

照明が演台へ集まった。

大崎会長が、落ち着いた足取りでステージへ向かう。

会場から大きな拍手が起こった。

登壇は、変更後の予定から1分も遅れていなかった。

美咲は舞台袖で、ようやく息を吐いた。

進行台本の順番は変わった。

それでも、イベントは止まらなかった。

参加者に届けるべき挨拶も、記念映像も、未来へのメッセージも、すべて届けることができた。

「相原さん」

隣にいた佐伯が、小さな声で言った。

「台本通りじゃなくても、ちゃんと進むんだな」

美咲はステージを見ながら答えた。

「台本を守ることが目的じゃないから」

以前の美咲なら、変更すること自体を失敗だと思っていたかもしれない。

しかし、イベントの本番では、予定外のことが起きる。

そのとき必要なのは、最初の計画へ無理に戻すことではない。

イベントの目的を守りながら、現実に合わせて新しい流れをつくることだ。

進行台本は、未来を固定するためのものではない。

変化が起きたときに、どこを動かせば本番を止めずに済むのかを考えるための地図なのだ。

式典が終わっても、イベントは終わらない

大崎会長の祝辞が終わり、第一部の式典は無事に終了した。

会場後方の扉が開き、参加者は隣接する懇親会場へ移動し始めた。

美咲は進行表に「第一部終了」と記録した。

大きなトラブルを一つ乗り越えた。

そう思った直後、懇親会場の担当者から連絡が入った。

「相原さん、少し気になることがあります」

「どうしました?」

「参加者が、会社ごとに固まったままです。交流がほとんど生まれていません」

美咲は懇親会場を見渡した。

確かに、参加者たちは知っている相手とだけ話し、同じ会社の人同士で小さな輪をつくっていた。

料理は並んでいる。

ドリンクも行き渡っている。

会場の雰囲気も悪くない。

それでも、主催者が期待していた「新しい交流」は始まっていなかった。

式典を予定通り終えることと、イベントを成功させることは同じではない。

美咲は、再び会場の中心を見た。


今回の学び

進行台本は「変更してはいけない予定表」ではない

登壇者の遅刻や交通機関の乱れなど、本番当日の不確定要素を完全になくすことはできません。

重要なのは、ただ到着を待ち続けるのではなく、次の点を事前に決めておくことです。

  • 何時まで到着を待つのか
  • 誰が進行変更を決定するのか
  • 前倒しできるプログラムは何か
  • 変更によって影響を受ける担当者は誰か
  • 変更後の最新版をどこで共有するのか
  • 遅れて到着した登壇者を誰が案内するのか

進行変更では、司会、舞台進行、映像、音響、照明、登壇者誘導など、複数の担当者が同時に動きます。

口頭連絡だけに頼らず、変更内容、担当者、対応状況を一か所で確認できる状態をつくることが重要です。

進行台本の役割は、予定を固定することではありません。

予定外の事態が起きても、イベントの目的と参加者体験を守るための判断基準になることです。


次回予告

Vol.15「交流会なのに、交流が生まれない」

式典を無事に終え、懇親会が始まった。

しかし参加者は、同じ会社や知り合い同士で固まり、新しい会話が生まれない。

料理や会場を用意するだけでは、交流は起きない。

美咲は、その場で参加者同士をつなぐ仕掛けを考え始める。