突然、会社のイベント担当を任された、ごく普通の会社員・相原美咲。

経験もノウハウもないまま、Excel、メール、電話を頼りに準備を始めますが、会場予約の期限切れ、増え続ける修正、関係者との認識違い、そして本番直前のトラブル――。イベントの規模が大きくなるほど、彼女の前には新たな課題が立ちはだかります。

30人の小さな歓迎会から、日本最大級のコーポレートイベントへ。

『イベント担当になりまして。』は、一人の会社員がイベントとともに成長していく姿を描く、BizMICEの連載ビジネス小説です。

※本作品はフィクションです。登場する人物、企業、団体および出来事は架空のものであり、実在するものとは関係ありません。

前回までのあらすじ

中堅メーカーの総務部で働く相原美咲、29歳。

新入社員歓迎会の担当を任されたものの、仮予約の期限を見落とし、最初に押さえていた会場を失ってしまう。

歓迎会まで、あと3週間。

美咲は50件の会場へ電話をかけ、ようやく条件に合う一つの会場を見つけた。しかし、最低保証料金は80万円。会社から示された予算は、前年と同程度の70万円だった。

会場は見つかった。

だが、今度は予算が足りない。

「去年と同じ」でお願いします

「料理の品数を一つ減らせば、5万円ほど調整できます」

会場の担当者が電話口で説明した。

「音響設備も見直せますか?」

美咲は見積書を見ながら尋ねた。

「ワイヤレスマイクを2本から1本に変更すれば、1万5,000円下がります。ただ、新入社員紹介の進行を考えると、2本あった方がよろしいかと思います」

確かに、司会者が1本を使えば、新入社員や社長へ渡すマイクがなくなる。

プロジェクターを外すこともできない。新入社員の紹介映像を上映する予定だからだ。

会場費。
料理費。
飲料費。
音響設備費。
映像設備費。
サービス料。

削れそうな項目に印をつけても、最低保証料金の80万円を下回ることはない。

美咲は総務部長の高橋へ相談した。

「条件に合う会場が、最低保証80万円なんです。予算を10万円増やしていただけないでしょうか」

高橋は困ったように腕を組んだ。

「去年は70万円くらいでできたよね」

「前年の見積書は68万円でした」

「だったら、去年と同じ内容にしてもらえばいいんじゃない?」

美咲は返事に詰まった。

料理も進行も、基本的には前年と同じ予定だ。しかし会場が違えば、料金体系も違う。

「もう一度、会場と交渉してみます」

そう答えて自席へ戻ったものの、何をどう交渉すればよいのか、美咲には分からなかった。


68万円の見積書

もしかすると、前年の資料にヒントがあるかもしれない。

美咲は共有フォルダを開いた。

「2025歓迎会」の中には、会場の見積書が複数保存されていた。

最初の見積書は68万円。

次の見積書は74万円。

その次は81万円。

ファイル名は、すべて「歓迎会見積書」だった。

違いは、ファイル名の末尾に自動で付けられた数字だけ。

「歓迎会見積書」
「歓迎会見積書(1)」
「歓迎会見積書(2)」

どれが最終版なのか分からない。

一つずつ開いて内容を比較すると、少しずつ項目が増えていた。

参加者が45人から52人へ変更。

マイクが1本から3本へ増加。

映像オペレーターが追加。

会場の利用時間が30分延長。

それでも、高橋が言っていた「70万円くらい」に最も近いのは、最初の見積書だった。

美咲はさらにフォルダを探した。

精算書、請求書、支払い申請。

検索欄に「歓迎会」と入力すると、総務部の支払いデータの中から、一つのPDFが見つかった。

前年の最終請求書。

美咲は金額を見て、思わず声を上げた。

「98万円?」

最初の見積額は68万円。

差額は、30万円だった。


増えたのは、ぜいたくではなかった

請求書の明細を、最初の見積書と一つずつ照合する。

料理や飲み物を豪華にしたわけではない。

高価な演出を追加したわけでもなかった。

増えていたのは、細かな変更の積み重ねだった。

参加人数の増加で、料理と飲み物が7人分追加。

社長の予定変更により、開始時刻を30分後ろ倒し。

それに伴い、会場利用時間を延長。

紹介映像の再生に不安があるという理由で、映像オペレーターを追加。

新入社員へのインタビューを行うため、ワイヤレスマイクを増設。

当日、受付開始前にリハーサルを行うことになり、会場への入室時間を1時間前倒し。

さらに、サービス料と消費税が加算されていた。

一つひとつは、必要な変更に見える。

しかし、それらが積み重なると30万円になる。

「誰も、途中で合計を見ていなかったのかな……」

美咲は変更後の見積書を確認した。

金額が増えるたびに、新しい見積書は発行されていた。

だが、誰が変更を依頼したのか、誰が追加費用を承認したのかは残っていない。

メール、電話、口頭。

さまざまな場所で決まった変更が、最終的に一枚の請求書へ集まっていた。

イベント当日が無事に終わったことで、細かな経緯は振り返られないまま、資料だけが共有フォルダに残されたのだ。


予算は「最初に決める金額」ではない

美咲は前年の請求書を持って、高橋の席へ向かった。

「部長。去年の歓迎会、最終的に98万円かかっています」

「えっ?」

高橋は請求書を受け取り、金額を二度見した。

「でも、見積もりは70万円くらいだったはずだけど」

「最初は68万円です。ただ、その後に人数や機材、利用時間が変更されています」

高橋はしばらく請求書を眺めた。

「そういえば、社長の到着が遅れて、開始時間を変更したんだったな」

「映像オペレーターも追加されています」

「ああ。前年の担当者が、映像が止まったら困ると言っていた気がする」

一つずつ説明すると、高橋にも記憶が戻ってきた。

ただし、30万円増えたという認識はなかったようだった。

「それなら、今年の80万円は高くないのかもしれないな」

その言葉に、美咲は違和感を覚えた。

確かに、前年の最終金額と比べれば80万円は安い。

しかし、だからといって今年も最終的に80万円で収まるとは限らない。

今後、参加人数が変わるかもしれない。

社長から新しい要望が出るかもしれない。

機材やスタッフを追加するかもしれない。

80万円は、ゴールの金額ではない。

スタート地点の金額だった。

「部長。予算は80万円ではなく、追加費用を含めて90万円で確保したいです」

美咲は言った。

「会場の最低保証が80万円です。ここから変更が発生する可能性があります。最初から予備費を持っておかないと、去年と同じことになると思います」

高橋は少し驚いた顔をした。

美咲が自分から予算案を出すとは思っていなかったのだろう。

「90万円か……。根拠は?」

そう聞かれ、美咲の言葉が止まった。

追加費用が発生しそうだから。

何となく10万円あれば安心だから。

それでは、根拠にならない。

「去年の実績を項目別に整理して、今年発生する可能性のある費用を出します。そのうえで、改めて提出します」

「分かった。今日中にお願い」

自席に戻った美咲は、前年の見積書と請求書を並べた。

体育会系の勢いだけでは、予算は通らない。

必要なのは、数字と根拠だ。


もう一つのExcel

美咲は、新しいExcelファイルを作った。

ファイル名は「歓迎会予算管理」。

まず、費用を三つに分けた。

必ず発生する費用。
参加人数によって変わる費用。
変更やトラブルによって発生する可能性がある費用。

必ず発生する費用には、会場費や基本設備費。

人数によって変わる費用には、料理と飲み物。

発生する可能性がある費用には、延長料金、追加機材、オペレーター、追加スタッフを入れた。

次に、それぞれの項目へ見積額、予算額、実績額の列を設けた。

変更が発生したら、理由と決定者も記録する。

前年の請求書を参考にすると、最低保証80万円に加え、予備費として10万円を確保する根拠を説明できそうだった。

美咲は完成した予算表を高橋へ提出した。

「基本費用が80万円。参加人数の増加や時間延長に備え、予備費を10万円としています。追加費用が発生する場合は、その都度、理由と承認者を記録します」

高橋は表に目を通し、うなずいた。

「分かった。90万円で申請しよう」

美咲は胸をなで下ろした。

ようやく会場を正式予約できる。

今度は申込期限を確認し、その場でカレンダーへ登録した。社内の承認が下りる日程も逆算し、前日には高橋へ通知が届くように設定した。

同じ失敗は繰り返さない。

少しずつではあるが、美咲はイベントの進め方を学び始めていた。


また社長からの要望

その日の夕方、美咲のもとへ役員秘書からメールが届いた。

件名は「歓迎会の演出について」。

本文には、こう書かれていた。

社長より、新入社員一人ひとりの個性が分かるような紹介映像を上映したいとの要望がありました。
また、当日は新入社員全員に一言ずつ話してもらう時間を設けてください。

美咲は時計を見た。

歓迎会まで、あと16日。

30人の新入社員が一人30秒ずつ話しても、それだけで15分。

登壇と降壇の時間を含めれば、さらに長くなる。

紹介映像を制作するには、写真やプロフィールを集めなければならない。

台本も、進行表も、会場利用時間も変更になる。

延長すれば、追加費用が発生する。

美咲は、たった数時間前に完成させた予算表を開いた。

「もう変更……」

思わず天井を見上げる。

しかし、以前とは違った。

追加費用が発生する可能性を、今回は予算表に入れている。

変更理由も、決定者も記録できる。

美咲は新しい行を追加した。

「紹介映像制作費」

金額の欄は、まだ空白。

次に、進行表を開こうとして手が止まった。

デスクトップには、似たようなファイルが三つ並んでいた。

「歓迎会進行表」
「歓迎会進行表_修正」
「歓迎会進行表_最新版」

さらに、メールには高橋が修正した別の進行表が添付されている。

どれを直せばよいのだろう。

美咲は小さくため息をついた。

一つの問題を解決すると、別の問題が現れる。

イベント運営とは、そういう仕事なのかもしれない。


今回の舞台裏から学ぶこと

見積額と最終金額は異なる

イベントでは、準備を進める過程で参加人数、利用時間、機材、スタッフ、演出などが変更されることがあります。

最初の見積金額だけで予算を組むと、最終的な請求額との差が大きくなる可能性があります。

予算管理では、少なくとも次の金額を分けて確認しましょう。

  • 当初の見積額
  • 承認された予算額
  • 変更後の見積額
  • 現時点の発注額
  • 最終的な実績額

追加費用には「理由」と「決定者」を残す

変更内容だけでなく、なぜ必要になったのか、誰が承認したのかを記録することが重要です。

  • 変更した項目
  • 変更理由
  • 増減する金額
  • 決定した日
  • 承認者
  • 関係者への共有状況

これらを残すことで、請求時の認識違いを防ぎ、次回のイベントにも実績を活用できます。

予備費を設定する

追加費用が発生しやすいイベントでは、当初から予備費を確保しておくことも有効です。ただし、「念のため」という理由だけでなく、過去の実績や想定されるリスクを基に、金額の根拠を説明できる状態にしておきましょう。


美咲が今回学んだこと

予算は、最初に決めて終わる数字ではない。
変更のたびに理由と判断を積み重ね、守り続けるものだ。


次回予告

Vol.4 最新版は、どれですか?

社長の要望を受け、進行表の修正を始めた美咲。

しかし、デスクトップ、共有フォルダ、メールには、それぞれ内容の異なる「最新版」が保存されていた。

さらに、古い進行表を受け取った会場担当者と、修正版を見ている司会者の間で、開始時刻が食い違っていることが判明する。

イベント準備を混乱させる、「最新版」という名の落とし穴。

歓迎会まで、あと12日。

◆連載『イベント担当になりまして。』

第1話 そのイベント、君が担当して

第2話 消えた会場と、50本の電話